「――符『――――』」
 相手がスペルカードを宣言したようだ。しかし杯《さかずき》を傾けていたので内容は聞き逃した。酒が喉を通る灼熱感に陶酔しながら、目の前の状況を眺める。
 薄暗い空間に燐光に覆われた無数の岩塊が宙へと浮かんでいる。それを彼女が確認した一刹那の後に、それらが放たれた。紗幕のように広がるそれ。しかし迫り来るそれを見据える彼女は、左手に持つなみなみと酒を湛える巨大な杯にもう一度口を付けながら微笑んだ。
 巨岩が迫る。しかし、何の面白みも感じない直線的な上に粗い弾道。そんな事を思いながら、彼女は肌に密着する白い衣と、朱と藤色の腰布を纏ったその身を翻し岩弾を躱す。それに追従するかのように、彼女の地下を覆う薄闇に映える山吹色の長髪が蛇のようにのたうった。ただ掌に乗せただけである漆塗りの杯に満たされた清酒の水面に、波紋は無い。
 酒気と熱の混ざった呼気を吐きながら、額に聳える真紅の一本角をこの地下の閉ざされた天へと向けるように軽く仰ぎ、彼女――星熊勇儀は豪気に笑った。
「はははッ。その程度じゃ私にかすり傷一つつけられないよッ。――そらッ!」
 尚も続く岩の弾幕。その内の一つである巨岩を、右の拳で叩き割る。拳程の大きさの破片へと砕ける巨岩。操っていた妖力が霧散し地面へと落ちるその残骸を、彼女は舞踏のような流麗さでしかし残像すら生じさせるほどの速度で余すことなく高下駄を履いたその足で蹴り飛ばした。
「――ッ!?」
 岩を放っている相手の驚愕を気配として感じとる。
 ――しかし、私の蹴り飛ばした石礫が自分の操る岩群を撃ち落した程度で驚いていてはこの後はどうなってしまうのだろう? と酒のニオイを帯びた吐息を小さく、しかし長く吐く。
 しかしこの、スペルカードルールというのも中々に面白い。そう考え、驟雨《しゅうう》のように降りしきる岩の雨を砕き、躱しながら薄く笑う。その身は激しく動く反面、手に持つ杯の酒は一滴も飛沫となることなくそれを満たし続けている。
 尋常ならざる者たちの中でも尋常ではない者――鬼、その中でも四天王とまで呼ばれる彼女が己のチカラを全力で叩き込んだならば果たして生き残るモノなど存在するのだろうか。
 答えは――居ることにはいるだろう。
 しかしそんな者がそこかしこに居るわけがない。宵を支配し影から影を跋扈《ばっこ》し赴くままに喰らい、飲み、力を振るった過去は遥か彼方。血肉の沸く闘争は砂塵《さじん》の一粒ほどの確立でしか起き得ない。
 故にこのスペルカードルールというものは都合が良かった。
「鬼符『怪力乱神』」
 相手の弾幕を悉く撃ち落すと、指先で軽く摘まんだ紙片をひらりと翻し、勇儀は酒気を孕んだ声で宣言する。
 刹那、空気が変わる。眼に見えぬ何かが充満していく、そんな気配。不可視の重圧が満ちていく。
「さぁさ、コイツをどう受ける!?」
 手に持つ漆塗りの大杯に口をつけた後の楽しそうな言葉とほぼ同時、彼女を中心にして鎖のように連なった光弾が出現した。輪を描くように展開し始めるそれ。巨大な陣を描くように展開を終えると、輝きを増し四散する。
 鱗のような形の、四散した光弾は次第、個別に蠢きだす。その動きは決して速くないが、相手を取り囲むように出現している上にその動きは不規則なため見た目には密。
 相手の絶叫。被弾しのたうち回る苦痛のそれではなく奮起の咆哮。あらん限りの光弾を撃ち放ち周囲の光弾を吹き飛ばす。
 乱れ撃ちの弾幕により、勇儀の『怪力乱神』の一部が空白に。
「――ァァァァッ!!」
「あっはははははッ!! 良いねッ。そういう力技は大好きさ!!」
 怛刹那《たんせつな》の空白地帯を、声を張り上げながら疾駆《しっく》し接近してくる相手を見て、酒に赤らんだ顔を緩め大笑《たいしょう》する『語られる怪力乱神』。ああ、もっと来い。相手があの程度のものに撃ち抜かれなかった。その事実に僅かな嬉しさを覚え笑みが治まらない。
 次瞬、未だ笑いの消えぬまま彼女は後退する。ただし、相手に背を向けることなく相対したまま。  片手の掌に乗せた杯をなみなみと満たす清酒を一滴も零すことなく地面を踏み砕きながら距離を取る勇儀。
 杯を持つ手とは逆の手より生み出す、相手の放つ光弾よりも大きな弾を放ち続け後退し続ける姿は時間を稼ぎ態勢を立て直しているかのように思えるが、それは違う。
 真実は、”刹那の内に終わってしまうこの甘美な時間を、出来うる限りに引き延ばしている“というのが正しい。
 光弾を放ち、更に周囲の岩を繰り彼女の弾幕を相殺する相手。それに向かい創り出した複数の使い魔達の放つ光弾も織り交ぜながら更に距離を取る勇儀。
 その最中に創った別の使い魔の放つ光の鑓をも躱し続ける相手を見て一層笑みを深くしながら彼女は、先程の『怪力乱神』とは別の紙片を指の間に挟み――
「今度は私からいかせてもらうよッ! 怪輪『地獄の苦輪』ッ」
 ――そう宣言した。
 刹那後、巨大な杯を乗せる手とは逆の手、即ち紙片を挟んでいた手の内に、ジャリ、という残響音を響かせながら幾つもの金属の輪が現れる。
 それを大きく振りかぶり、迫る相手に投げつける勇儀。その山吹色の長い髪がうねるが掌に乗せた杯は微塵も揺れることはない。
 放たれた鉄輪。勿論それはただの鉄輪ではない。投げられた数多の輪は彼女の手を離れた直後、妖力によって紫の光を帯びて巨大化。異様の弾幕となって相手を襲う。
 妖力を弾丸へと変えた光弾を放ち相手も応射するがそれも『地獄の苦輪』の纏う妖力を少し削ぎ、若干大きさを小さくする程度の結果しか生み出さない。
「――『――――』!!」
 圧倒的な重圧感を孕んだ妖輪が直撃する瞬息前、輪と弾幕が生み出す轟音に掻き消されながら何らかのスペルカードを宣言する相手。
 刹那、周囲に幾多もの人影が。それらは人形めいた生気を感じさせぬ挙動で迫る怪輪を受け止める。
 堅硬な音を響かせながらその人影は『地獄の苦輪』を自身の身と共に打ち砕く。
 崩れ落ちる人影。否。それは傀儡《かいらい》。妖力によって操られた岩人形。
 自らの弾幕を受け止められ、尚且つ相殺された勇儀だが、額に深紅の聳《そび》えるその美貌に浮かぶ笑みは更に深く。
 熱に浮かされた笑声《しょうせい》を上げながらもう一度鉄輪を放ち、更に次いで妖光の弾丸を数多に乱射する勇儀。
「『――――』!!」
 しかしそれに怯むことなく相手は半ば飛翔するように疾駆する。
 勇儀の放つ弾幕にはよく見れば偏りがあり、まるで道のように彼女へと続いている。
 そこを駆けながら、岩人形を作り出したスペルの他に更に別のスペルカードを宣言した結果、その身に岩を鎧《よろ》い、岩人形達が行く手を阻む『地獄の苦輪』を防ぐ盾となる。
 口元すらも覆われているためくぐもった叫びをあげながら肉薄する相手。岩の鎧を身に纏っているため肌どころか髪一本の露出は無い。
 ばら撒かれる勇儀の弾幕を受けながら、しかしその身は止まらない。岩鎧を削られながらも真っ直ぐと迫る相手。
 その途中、数倍太く長くなったその腕を振り下ろし大地を削り、その破片を即席の弾丸へと変え放つ。
 優雅さなど皆無なその突撃を――
「あははッ! そうさッ! それが良い! 見た目なんか気にせず殴り合おう!!」
 ――勇儀はそう大笑しながら、眼前に迫る相手の無機質な拳を自分の拳で殴りつける。
 スペルカードルールとやらは放つ弾幕の美しさも考えて繰り出す『遊び』らしい。花火の玉に星を並べて詰めるように、どういった風に弾幕を放つか考え実行するのも悪くない。悪くないがやはり、単純に殴り合うようなものの方が好ましい。
 瞬きの一瞬に勇儀がそんなことを思っていると、次の刹那に無骨な岩拳と白魚のように白く透き通った鬼の拳が衝突した。
 暴力的な破砕音。その感触に最早裂けているとしか言えない程にその美貌の相貌を崩し大きく笑う鬼。
 結果、圧倒的な膂力《りょりょく》の差によって岩の拳が粉砕される。
 しかし――
「……?」
 ――肩口まで吹き飛んだにしては何の反応もない。ただ機械的に残った腕で振りかぶるそれを見て小首を傾げる鬼娘。
 ただ動いている。そうとしか言えない作り物めいたそれの一撃。だが暴風めいた風圧を生み出すその拳打は並みの妖怪ならば消し飛ばすだろう。
 しかし、勇儀は並みではない。それ以上の轟風を伴う蹴りで岩鎧の胴を抉る。
 腹部の殆どを砕かれたそれは、鈍い音を響かせながら地に崩れ落ちる。
 呆気ない。これで終わりか。ぴくりとも動かない相手だったものを見降ろしながら、深く息を吐き小さく首を振った後、手にした杯を傾けようとした刹那――
「ッ!?」
 ――背後から攻撃を受けた。
 背中に灼熱感。先程の岩拳と同程度の破壊力の一撃を喰らった。それを自覚する。
 しかし。
 だがしかし。
「――ッ!?」
 攻撃を受けた勇儀ではなく、その背中に渾身の力を込めた一撃を放った相手が驚愕し、声すら出ない様子で殴りつけた姿のまま立ち竦《すく》む。







 何故か?
 自問する。
 それは何故か。
 自身が微動だに出来なくなるその理由。
 理由は――
「なぁんだ。まだ戦《や》れるんじゃあないか。私が壊したあれは岩の人形かい? ……あぁ、あんたが地面を削ったのはあれと入れ替わるのが目的だったのか」
 ――杯に口を付けながら、ケラケラと楽しそうに顔を綻ばす鬼以外ありえない。
 何がそこまで恐ろしいか。
 地下にあるこの世界の常である暗闇に映える妖光を纏うその山吹色の長い髪か?
 それとも、灼熱地獄の劫火よりも人間を引き裂いたときに散る鮮血よりも鮮やかな紅く聳えるその額の一本角か。
 若しくは、全霊を込めた一撃を喰らいながらも手に乗せた杯の中身に揺らぎ一つ起こさず受け切ったその肢体?
 或《ある》いは、酒に、闘争に陶酔している熱く潤んだその瞳?
「んー? どうしたぁ? まだ戦れるだろう? 否。無理だとしても絞り出せ。命名決闘法が邪魔だというならお前は気にしなくていい。私が三枚という部分のみを残して再開しよう。既に二枚使ったから後一枚。後一枚破ればお前は私に勝った妖怪だ」
 甘く蕩《とろ》けるようでいて、しかし剃刀《かみそり》の刃のように聞いた者の心を微塵に刻むその言霊《ことだま》も恐ろしいかもしれない。
「……ァ、アアアアアアアアアアアアアアアアアあアアアアアアアアアアアアアぁッ!!!」
 最早スペルカードルールやら、命名決闘法やら、残りのスペルカードの枚数も、否、勝ち負けさえも、もうどうでもいい。
 刹那よりも早くこの状況から脱したい。
 故に。
 故に。
 故に。
 全身全霊全妖力にその身に宿る魂さえも燃やしつくす勢いで殺しにかかることを選択する。
 先程放った数倍の大きさの巨岩の群れを放ち、数倍は妖力を込めた岩人形の群れを繰り、自身が纏う岩鎧の手には巨大な岩の鎚《つち》。
 圧倒的な質量の弾幕も――
「あはははッ! ああ、良いねッ。もっと、もっとだ!!」
 ――さして力を込めているようには見えぬ拳に砕かれ。
 二足での歩行すら捨て、無機質だがどこか獣じみた動きを見せる傀儡達の群勢も――
「まだだ。まだ足りない! 折角うじゃうじゃと居るんだから一遍に向かってこい!!」
 ――大鎌のような回し蹴りに悉《ことどと》くが刈り取られる。
 岩人形と鬼の荒々しい舞踏。主役は白い衣に朱と藤色の腰布を纏う雄々しき淑女。砕け散る定めの人形達を相手に満面の笑みで踊り続ける。
 ああ、恐ろしい。恐ろしい恐ろしい。
「――ぅおおおおおおおおぉぉおおおぉッ!!」
 人形達が塵芥《ちりあくた》となり撒き散らかされているのを視認しながらも吶喊《とっかん》する。
 恐怖を払うために絶叫しながら手に持つ岩鎚を振りかぶり最接近。
 何をそんなに恐怖する?
 轟音。
 大地を砕き割る勢いで打ちこんだその一撃を、ゆらり、と上げた左腕一本で受け止められた刹那にそう思う。
 笑みを浮かべる勇儀とは対照的に、その足元は薄氷を踏み割るような音を上げながら罅割《ひびわ》れる。
 その中心に佇む鬼の右手に乗せた漆塗りの巨大な杯の水面に、波紋が幾つも波打つのすら見てとれる程に自身の時間が凝縮されていることに気がついた。僅かに揺れる杯。しかし中身が零れることはない。
 視線が、ゆっくりと此方を向く。
 燃えるように赤い瞳に射られ、それに温度を奪われたかのように背筋が凍りつく。
 ピシリ、と小さな亀裂が岩鎚に。
 早鐘を打つ心音と、自分の吐く荒い呼吸音のみが耳奥に響く。
 添えられた彼女の掌を中心に蜘蛛の巣状に亀裂が大きくなっていく。
 見据える鬼の顔から視線を反らせない。潤み蕩けたその双眸《そうぼう》。心の底から楽しそうに、愉快そうに犬歯の覗く程に大きく笑うその美貌。
 ああ、恐ろしい。
 鎚の崩れる音がが徐々に大きくなっていく。
 最後の足掻きだと、岩人形を数体作り出すが、それなどは鬼の身に触れる前に崩れ去ってしまった。
「ああ――」
 粉砕され沙となった残骸を踏みしめながら鬼はニタリ、と笑いながらも何処か冷めた吐息を漏らし言葉を紡いでいく。
「もうお仕舞いか――」
 哀愁すら感じる声色で宣言される。もう終わりだと。これより先は無い、そう告げられる。同時、手の内の大鎚が完全に崩落した。
 恐ろしい。恐ろしいことこの上ない。
 自由になった左腕を振りかぶる『語られる怪力乱神』。
「愉しかったよ。刹那でも長く続けたかったが、……ここまでみたいだね――」
 引き締まった女の細身の纏う存在感が膨張。まるで山を相手にしているかのように錯覚すらする。  否。山ならば、今、将《まさ》にこの身に当たろうとするこの拳は放てない。
「これが終わったら酒でも飲み交わそう――」
 怖い。恐い。こわい。コワイ。
 『力の勇儀』と称される鬼の一撃がこの身に纏う分厚い岩鎧の表に触れる。
 こわいこわいこわい。
 直撃するその前に意識は後方に吹き飛んだ。
 刹那遅れて肉体の感覚が――
 否。これも最早何も感じない。
 それに僅か遅れてようやく音が追いついた。万雷《ばんらい》を京《けい》個纏めればそうなるかもしれない轟音。その中――
「そしてその内にまたもう一度戦ってもらいたいもんだねぇ。あははッ」
 ――不思議と聞こえるそんな呵々大笑《かかたいしょう》。
 恐ろしいったりゃあ、ありゃしない。
 何が恐ろしい?
 それは――あの鬼の愉しそうな笑顔を見たり、豪快なその笑いを聞けるのならば、生きていたらもう一度――否。生まれ変わっても、もう一度戦っても良いかと考えている自分がとても恐ろしい。
 だがしかし、酒を飲み交わすのは残念ながら後世になりそうだ。

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